はじめに

今回、kintone advent calendarで記事「ライフログのkintone 盛り alasqlとGoogle chartを添えて」を書きました。
記事の中では私はライフログをこう表しました。「システムが行った作業の結果がログ。ウェブ上にログを残すからウェブログ。略してブログ。そして、人生のイベントを記録するのがライフログ。」

記事を書いている私の心に居座っていたのは「私にとってライフログとは何か」です。
いったい、ライフログの本質ってなんだろう。私にとってのライフログは実践可能なものだろうか、と。
その結果、私にとってSNS「ソーシャル・ネットワーク・サービス」がすなわちライフログにほかならないことに気づきました。

人生の意味とライフログ

人は何のために生きるべきか。
これは古来から延々と考え続けられてきたテーマです。人は誰もが死にます。一個人としての意識は死んだ瞬間、消え去る。後には何も残らない。貧富の差も、宗教の違いも、身分の差も関係なく平等に死は訪れる。これは霊界通信を読むまでもなく、生きている人にとって疑いのない真理です。
ただ、それをもって人生をむなしいと捉えるのは間違い。一人一人の個人は、人類という種を構成する一部であると考えれば、私という個人の意識は絶たれても、人類としての存続は続く。そう考えれば死のむなしさの恐怖から逃れられるのではないでしょうか。
そして生の意義とは、人類という種の存続になにがしかの寄与をすることにあると思います。それは子を作り育てるだけではありません。子を養わなくても、人類が存続するため、社会に貢献することだって立派な行いです。
そして私はもう一つ寄与できる事があるのではないかと思います。それは時代の集合意識をのちの世に残すことです。

人類の集合意識。
それは各時代、各地域によってさまざまな形を持ちます。
かつての常識は今の非常識。東のしきたりは西のタブー。だからこそ、古人によって描かれた日記の類が、将来の歴史家にとってその地その時代を映し出す第一級の資料とされるのです。
ただ、一方で現代とは日ごとに膨大な写真や文章が生み出される時代。だから今の時代をトータルで捉えたければ、それらをビッグデータとして解析することで事足りるかもしれません。
ですが、そうしたとらえ方では時代の全体としてしか精神をとらえきれないような気がしています。
一個人としての連続した言動、日々のつぶやきや日記として残された意識の断片をつなげると、そこには一貫した意識が残されるのではないかと思うのです。私はそれこそがライフログの意味だと思います。
だから私自身のライフログが重要なのは私自身よりも、むしろ未来の人々が参照する時代意識の資料としてではないかと思っています。
むしろ私は、ライフログを日々の膨大なイベントを忘れるために使っています。いったんSNSにあげてしまえば、速やかに忘れ去る。必要があれば取り出す。そして一人の個人の生きた歴史としてのちの世に委ねる。個人史のサンプルとして。
私はライフログとはそういう営みだととらえています。

今回の記事をキッカケとして、私にとってSNSとはすなわちライフログの手段、と肚に落ちました。

SNSとライフログ

そもそも人はなぜこれほどSNSにハマるのでしょうか?
自己表現、自己顕示、承認欲求、つながりの明示化、人脈作り、商機の拡大。その動機は人によってさまざまです。
利用者の抱える多様なニーズに合わせ、いかようにも使える可能性があったからこそ、SNSはここまで支持されたはず。
では私にとってのニーズは何か。SNSを通して、発信し続ける理由はなんなのか。それを自らに問うた時、出てきた答えがライフログだったのです。
今回の記事をキッカケに、SNSの意味がやっと見えたように思います。

ここでSNSの一般的な意味を考えてみます。SNSは古くはfriendsterやmixi、LinkedInから、今のFacebook、Twitter、Instagramなどに至るまで多くのサービスが産まれては消えて行きました。
今もまだ、いくつものサービスがしのぎを削っています。全てを合わせるとかなりの利用者数を誇り、ハマる人は1日何時間もSNSに浸っていると聞きます。
SNSはそんなところから企業の生産性悪化の元凶として、また鬱などの元凶として槍玉にあげられる一方、イベント集客やつながりの構築が便利になり、遠方の友人の消息を知るのにも使われています。

さらに考えを進めると、SNSによって特性が違うことにも気づきました。
例えばFacebookです。最近、Facebookばなれがよく言われます。当のFacebookから、よくアンケートを求められ、Facebook自身も危機感をもっている事を感じます。
若年層がFacebookから離れた原因として、中高年のキラキラ成功体験がFacebookに埋め尽くされているのがウザい、という声をよく聞きます。多分私の書いている内容もその一つなのでしょう。

それは、Facebookに書かれる内容の多くが過ぎ去った事という実情に関係しそうです。そう思いませんか?
今日のイベントの結果。こんな食事を食べた。こんな景色を見てきた。こんな内容で登壇した。こんな記事を読んだ。エトセトラエトセトラ。もちろん私自身が書く内容もそう。
そこには実名主義であるFacebookの特質が潜んでいそうです。実名であるがゆえに、未来の展望も控えめにしか書けない。なぜなら書いたことに責任が生ずるから。大風呂敷は広げた以上、きちんと畳まねばなりません。そして未確定な予言である以上、必要最小限のことしか書けない。

それに対し、Twitterは実名も仮名も許されています。
そして140字という制限があるため、そもそも込み入ったことが書けません。つまり理屈や自慢が入りにくい。
わが国のTwitter利用率は諸国の中でも高いと聞きますが、それはおそらくFacebookの実名主義や人との距離感が日本人には合わないからだと思います。むしろ最近の技術者界隈ではTwitterの方が情報発信ツールとして重視されているような感触も持っています。
それもまた、未来志向であるTwitterの特性なのかもしれません。

ただ、過去志向であれ、未来志向であれ、個人を発信することに違いありません。
記事のシェアや他人のつぶやきをRetweetすることだって個人の意見の発信です。つまりはその時々の関心事であり、全てはその人の生きた証です。
よく言われるのが、発信する内容がプライベート寄りだと避けられてしまうということ。
ですが私に言わせると、そもそも対象が公共だろうが閉じたサークル内だろうが、内容が仕事のことだろうがプライベートのことだろうが、発信すること自体がすでに自分の顕示だと思っています。全ては「自分語り」なのです。
SNSとは結局、自分を顕示し、語ると同時に、記録してくれるツールに過ぎません。
でもそれを認めると、かえってスッキリしませんか?。
そして最後に書いた「記録する」という点こそ、SNSがライフログツールである理由だと思うのです。

SNSとは発信する人がその時々で生きる証(行動、言葉、考え)を記録するツールだと考えられないでしょうか。つまりライフログ。
今日何を食べた。こんなキレイな景色をみた。セミナーで登壇した、私はこういう意見がある、他人はこう言っていると紹介する。全てはその人の人生のログです。
ここまで考えを煮詰めてゆくと、私がなぜ今までSNSへの書き込みを続けているのかが腑に落ちました。

もちろん、SNSの重要な機能としてネットワーキングは外せません。ですがネットワークを構築するには、まずあなた自身がどういう人間か開示しないことには、相手もトモダチにはなってくれません。
その意味でもSNSのベースとは自己顕示のツールと考えてあながち的外れではないと思います。

一方で、プライバシーの問題もあります。
自分の行動を開示することによる不利益をおそれる。もっともなことです。
死んだあとにまで自分の行動を詮索されるのはいやだ。そう思う人もいます。当然です。
自分が死んだらライフログもまとめて闇に葬って欲しいと思う。当たり前です。
SNSなどしょせん、ビジネスのつながりが構築できて、その場の承認欲求が満たせればいい、そう思う人もいるのも理解できます。
だからこそSNOWやSnapchatやInstagramのStoriesのような一定時間で投稿が消えるSNSにプライベートな内容を書く利用者が流出しているのでしょう。

そもそも、若い頃はだれもライフログなど興味を持ちません。未来が輝いて見える以上、過去には興味をもたないものです。
私もそうでした。私の20代のころの記録などほとんど残っていません。なので、今になって過去のことをブログに書く度に苦労しています。
そもそも40半ばになった今ですら、過去の記録を覚えていようとも、しがみつこうとも思いませんし。

だからこそ、SNSをライフログツールととらえるとよいのではないかと思うのです。目的は完全にプライベート。将来の自分のために記録するための、今の行動の詳細な情報を忘れてしまうためのツール。
老年に入って死が近づけば「終活」の一環で過去のアカウントを消してしまってもよいし、先に述べた通り時代精神の資料としてのちの世に委ねるのもあり。
当初からSNSをビジネス目的のみで考えず、ライフログの副産物として何かしらの反応があったらそれはありがたく利用させていただく。
こう考えるとSNSへの付き合い方がずっと楽になるのではないでしょうか。
少なくとも私はSNSを巡回し、「いいね」を押して回るのをやめてからは時間もできました。そしてずいぶんと楽になりました。

今回の記事を書いてみて、ライフログとSNSの関係がはっきりするとともに、SNSへの付き合い方への指針のようなものが自分にたったのではないかと思います。
結局のところ、日々の人生は「どう幸せに生き、どう悔いなく死ぬか」にかかっているのですから。


3 thoughts on “SNSはライフログツール

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